yakinikunanzan会長の事業承継奮戦記

子育てと事業承継について

春に向かって

yakinikunanzan2009-03-03



世の中、大変なことになっている暖冬が、もう春! 3月になりました。
100年に1度の・・・というフレーズもすっかり聞きなれてしまい、悲惨な事件の数々が日常茶飯事になったように「なんだ、狼が来ただけじゃないか」というところなのでしょうか。
狼に食われるのか、手なずけるのか、大崩壊と進化とが同時進行するような、すごい時代に生きているのだなぁと、日々実感させられる毎日です。


そんな中、南山は、ひょっこりひょうたん島のような小さな浮き島づくりというか、箱舟づくりのようなおもしろい事業をスタートさせました。
京都を舞台にした「食と農」の共生体づくりです。
昨年施行された農商工等連携促進法に基づく事業に南山も応募し、「農業者と飲食業者の連携事業」を提案して無事採択され、2月23日に認定式がありました。



ここにたどり着くまでは、京都府中央会さんからの献身的なフォローをいただきながら、ネジがいくつか吹っ飛ぶような大騒動の毎日でしたが、いよいよ4月から南山と日本海牧場さんの農商工連携「“京たんくろ和牛”のブランド化事業」がスタートします。


短角牛と近江牛を扱ってきた南山に、その中間の京都府産のタンクロ(短角牛×黒毛和牛)が昨年から試験参入。南山で「京たんくろ和牛」という名をつけてお客様に食べていただいたところ、なかなかの人気でした。
それならば、いっそ「環境にやさしく牛さんにも幸せな、京都の人に愛される京都産のブランド牛」に育てようと、連携事業をスタートさせることになったのです。


この「京たんくろ和牛」を生産しておられるのが京丹後市網野町の「日本海牧場」さんで、社長の山崎高雄さんは「京の丹後に農舞台をつくる」という壮大なロマンをお持ちです。


山崎社長の本業は建設業でありながら、1980年に先代社長(父上)が、「山を活用して牛を放牧する」という牧場経営を始められ、現社長が岩手県岩泉町の短角牛と出会ったことがきっかけとなって、現在は、短角牛を山に放牧し、黒毛和牛とかけたタンクロの生産をしておられるのです。


この牧場は、地元の人々からも愛され、散歩にも最高! 
網野町の旅館「万助楼」さんのブログにはこんな素敵な「山歩き」の記事がありました。


http://www.mansukero.com/blog/?p=141


日本海牧場の山の上には、サウンドアートの世界的先駆者、鈴木昭男さんの手によってつくられたすばらしい芸術空間「日向ぼっこの壁」があり、それが20年も前からそこにあリ続けていたというのですから、驚きです。


20年30年という時間が、ゆっくりゆっくり醸成されている「日本海牧場」が、京都には実在しているのです。そんなこと、地元の人も含めほとんどの人に知られていないのですから、これは素敵なロマンです!


そして、こんなおしゃれな文化に慣れ親しんでおられる旅館の万助楼さんにも、ロマンあふれる物語が・・・。
与謝野鉄幹・晶子夫妻が愛でた風景というのがこの宿からの、この景色!





万助楼さんは、そういう由緒ある旅館で、昨年、ここで山崎社長と事業計画の打ち合わせをしたのですが、浦島伝説の地で、こんな玉手箱を昼食にいただきました。





この山崎高雄社長(↑)が、生コン、建設のほか、車えびの養殖、民宿、米・野菜づくり、そして天然の塩まで作っておられる繁殖肥育一貫「日本海牧場」の主です。


塩は、廃材を処分する火で日本海の海水を炊いてつくり、「翁の塩」という名で高級料亭などから愛でられています。(南山でも分けてもらっています)
その「塩炊きの翁」がいる塩炊き小屋がこちら(↓)。


「うわ〜、1日中、火の番しますんか。海水は、ここまでどうやって運んでくるんですか?? 大変でしょう?!」と見学中の方が山崎社長に尋ねると・・・。
「・・・。すぐそこに海がありますやん。」と、山崎社長。
ここでは時間の流れ方が違うのです。


日本海牧場では、タンクロだけでなく、黒毛和牛の繁殖肥育一貫も同時に手がけておられ、黒毛和牛のお母さん牛がのんびり日向ぼっこ。稲サイレージのホールクロップも積み上げられていました。



自家産の牧草農地7ha、放牧地14ha。
これをどう広げて、牛も人も、産地も消費地も幸せになれる連携事業を展開するか・・・。


多くのすばらしい人に支えられて、若者が夢を持てる事業に挑戦したいと思っています。


日本海牧場さんが開設された1980年は、南山も時を同じく先代の創業者が「日本の食文化は如何にあるべきか」を世に問う大シンポジウムを開催した年でした。


安全安心な食を支えるための飲食業者と農業者の大連携運動をスタートさせた南山の創業者でしたが、その後、南山は盛大に崩壊して再生企業となり、今を必死で生きています。


日本海牧場さんも、代替わりを機に牧場を閉鎖しようとした現社長が、短角牛の可能性にかけて踏みとどまられたという大変な苦労人。
どうやら先代からの大きな宿題を抱えたもの同士、縁あってこうして出会ったのでした。


1980年代を支えた戦争を知っている世代の大人には、すさまじいパワーがありました。
あのころの親父たちが嘆いていたとおりの情けない世の中になってしまいましたが、私たちダメ世代は、これから小さな共生体をつくって、「みんなが食べていける」というささやかな大きな幸せ事業のモデルづくりをはじめます。
でっかい事業はできなくとも、この事業に関わったたくさんの人が、ここから希望を見出せる事業にできればと、
そんなふうに思っているのです。