yakinikunanzan会長の事業承継奮戦記

子育てと事業承継について

奇蹟の近江牛物語

yakinikunanzan2009-09-19



37年間、年中無休でがんばってきた南山ですが、今年5月から第3木曜日を定休日にし、店舗のメンテナンスやスタッフ研修に時間をとることになりました。


9月の第3木曜日は、晴天に恵まれ、念願の沖島めぐり・・・。

奇蹟の近江牛「なかのり号」を育てた後藤喜代一さんの案内で、後藤さんのふるさとの島へスタッフたちと一緒に行ってきました。



大中の堀切港には沖島の方々の漁船がずらり。
ここからわずか3キロのところに沖島。その向こうは、島から12キロの湖西側、本土です。


「パスポート持ってきたか?」と後藤さんの奥さんが冗談を言われたのがあとになって理解できたのですが、沖島は、本当に独特の文化と歴史をもった、時間の止まったような島でした。
後藤喜代一さんは、この島で石材業を営み、この島から手漕ぎの船で大中へ通って干拓地を耕し、減反政策後、牛飼いになられた方です。


ここを手漕ぎの船で通うのはどれほど大変だったことでしょう。
雪が降ると前方が見えず、岩に激突しかけたこともあったとのこと。当時の写真を「なかのりさん、ありがとう」の絵本に載せていただきましたが、こんな手漕ぎの船は今では見ることができません。



まったく観光化されていない沖島を、後藤さんご夫妻と長女の木下その美さんにご案内いただけたおかげで、もったいないほどのよい一日を過ごさせていただき、命の洗濯ができました。


沖島島民専用の船をチャーターしていただき、沖島に着くと、まずは島の中心「西福寺」へ。




西福寺へは、「おきしま資料館」(↑)の角を曲がって、細い路地を進むのですが、これがメインストリート(↓)です。



島を拓いた源氏の落武者の7人の一人「茶谷重右衛門」の末裔のご住職、茶谷さんから島の歴史とお寺に伝わる物語を伺い、蓮如上人直筆の「南無阿弥陀仏」も間近に拝見させていただきました。



子を残しては死に切れなかった母親を成仏させるために蓮如上人が「むしろ」を下敷きにしてお書きになった「南無阿弥陀仏」は、むしろの縞模様が虎のように見えることから「虎斑の名号(とらふのみょうごう)」と言われているのだそうです。


ご住職の語りは、よどむことなく30分ほどがあっという間で、「幽霊なんて、そんなもんいるわけありませんけど・・・」と、みなを笑わせながら、幽霊の成仏物語から生まれ西福寺の言い伝えをお聞かせくださいました。


お寺の本堂をお借りして、立派な仏様の前でお弁当を頂いたのちは、島の散策・・・。


自動車が1台もない島で活躍しているのは三輪自転車です。


児童9名に先生が7人の小学校は、平和そのもの。


昔の小学生たちも、小学校周辺での〜〜〜〜んびり。
時間が止まった島では、ひたすらの〜〜〜〜〜んびり過ごすしかありません。





帰りの船を待つ港では、島でただ1軒のみやげ物店と、外来魚回収のバケツを見物。ブラックバスが漁業を滅ぼしたと、島の方がおっしゃっていました。でもこの魚、食べればけっこうおいしいそうで・・・。


沖島で顔の利く後藤さんのおかげで、帰りの船では沖島1周クルージングを楽しませていただきました!



沖島に人が住むのはごくわずか港の周りだけで、無人島さながらの風景が続きますが、石切りで島の形が変わったような島の端も、後藤さんにはなつかしい一帯。


船長さんが「うわ〜、久しぶりに来た・・・」とおっしゃる、不動明王が祀られた修験者の飛び込み場(↓)も見物できました。
7メートルの高さから飛び込むのだそうで、後藤さんは頭から、その美さんも足からなら飛び込んだ経験をお持ちでした。
(ちなみに、沖島生まれのその美さんは、沖島から大中までの3キロを子どものころ泳いで渡ったというつわものです。)



サカエヤの新保社長も、ご一緒くださったので、このメンバーでは、話題は牛で盛り上がります。
増体型の、時には900キロもある近江牛が出る中、小柄な但馬の血統にこだわり、味本位、牛の健康本位でがんばる後藤さんと木下さんたちは、市場評価よりお客さんの声を反映させた肥育を追及して、日々勉強勉強で新しい発見をなさっています。
いつお話を伺っても、惹きこまれてしまうのは、当然のことかもしれません。


某金融機関の方も、南山が出している近江牛が木下牧場のものと聞いて、「そりゃ、最高の近江牛ですやん。後藤さん、木下さんは、別格ですもん」と太鼓判。
生産者さんの取組みが、南山のブランドも上げてくれるのですから、後藤さん木下さんは、本当にすごい方々です。



ご住職からお聞きした島の歴史で印象に残ったことのひとつが、「島は漁業のほかにも石材業でも栄え、石材業組合の利益で対岸の国民休暇村あたり一帯の土地を購入して、島民のための田んぼにしていた」というところなのですが、歩きながら後藤さんに、そのお話を伺うと、「石材業組合の儲けで土地買ったって言うてはったか? そんなことないやろ。 あんたの聞き違いやろ・・・」とのこと。


後藤さんには、石材業で儲けた記憶はなく、苦労された記憶しか残っていないのでしょう・・・。


医者のいない島で船の手配が間に合わず大事な弟と妹を亡くされた記憶、水運がトラック輸送に変わり、石がコンクリートに変わっていくいたたまれない記憶・・・。後藤さんの島の記憶は哀切に満ちたもののようです。


でも、ご住職もおっしゃっていた石材業が島を豊かにしたという記録は、下記にもしっかり記述されていました。

http://www.omi8.com/annai/okishima.htm


歴史をを背負う人ではなく、歴史を作る人となられた後藤さんは、石材業、稲作農家を経て、ほんまもんの近江牛を追求し、孫たちまでが誇り高い牛飼いを目指す「プロの家業」を築かれました。


なかのりさん、ありがとう」につづらせていただいた後藤さんの物語を検証する沖島めぐり・・・。
よくぞここまで!!と、感嘆せざるを得ない「奇蹟の近江牛生産者」の物語を堪能させていただいたのでした。


本当にありがとうございました。