yakinikunanzan会長の事業承継奮戦記

子育てと事業承継について

命あるものからの痛切な問い


私、生きている実感が無い。自分が自分じゃない気がする。生きていてもつまらない。私が死んだら、誰が悲しんでくれる? 私は必要とされてる? どうせ、私なんか・・・。
4月から中学校へ通い始めて1週間過ぎたところで、多感な少女はふさぎこんでしまいました。
みなと同じ制服に身を包んだ瞬間、彼女はアイデンティティーの危機におそわれてしまったようでした。


そっかぁ。そりゃぁ、いやでもこれから大人になっていかないといけない年頃になったんだもん。思春期ってのは不安でいっぱいで、荒れて当然! 誰でもおんなじだよ。 お母さんもそうだったし、お姉ちゃんも、お兄ちゃんもいまだに不安いっぱいに苦労してるんだよ。

人間は、人を喜ばせるために生まれてきたんだって!(佐藤芳直氏の受け売り) 人それぞれ違う課題を抱えてるけど、神様は自分が背負える課題だけを与えてはるんだよ。お母さんは、あんたと出合った時からあんたを守ろうって決めて今日まできたし、あんたが大きくなった姿、幸せになった姿を想像しただけで涙が出てきたもんだよ。お母さんは、これからもあんたを守るし、あんたが荒れた時は待っててあげるから、大丈夫。だから、あんたは、ちょっとだけでもいいから、お母さんを喜ばそうと思って生きてくれる?


こんな会話を交わすことで、ケロッと明るさを取り戻してくれた彼女ですが、彼女は、小学2年生のときから週末を我が家で過ごした末、この4月から我が家の一員として同居をはじめた子なのです。
「18歳になったら自立する」ということをはっきりとした目標にこれからの6年間を育たないといけない子です。でも、これは我が家にとっては当然の子育て基準で、私自身も18歳で経済的に自立し、長女も大学へは奨学金とアルバイトで自力で通いました。わたしは、このきっぱりとした基準を大事にしたいと思っているのです。


人間の世界のことを、農業の世界に置き換えて考えるというのが、南山の創業者孫時英の持論で、父は「農業思考」という言葉を盛んに使って人材育成をしていました。


農の世界から人間を見直したとき、出荷適齢期を過ぎると味が落ちるように、自立を意識すべき適齢期というものをあいまいにしてはいけないのではないかということも痛感しています。
少子化とともに、自立しなくとも生きていける、アイデンティティーの危機もへったくれも無い若者が増え、学生アルバイトの資質が激変してきています。学生アルバイトといえども、18歳を過ぎれば社会人として通用する仕事ができないと、それはとても恥ずかしい発育不全といわざるをえないのではないでしょうか。


「私は必要とされてる?」 
・・・私は、神様からの預かりものである子どもの一人を、養育里親として育てることを機に、農畜産物も含め、命あるものすべての悲痛な叫びを彼女の口を通して聞かされた気がしました。


農家の方が、丹精こめて育てた命の糧。それはわが子同様にいとおしいもののはずです。
それが市場で買い叩かれ、あるいは粗末に扱われたあげく廃棄される姿を、いったい誰が正視できるでしょうか。言葉を発することのできない命ある農畜産物自体、アイデンティティーどころか、この世に生を受けたことをのろいながら生きているかもしれません。


そんなことを思うと、南山が農家さんから直接分けていただく農畜産物は、「おいしかったよ、ありがとう」という言葉がちゃんと育ての親に届く、とても幸せな生を全うしてくれていると思います。


命あるものの根源的な幸せがどこにあるのか、もっとよく考えていきたいものです。


5月25日(日)は、近江悠紀会さんの田んぼで田植えをさせてもらい、すぐそばの岡部農園さんでサツマイモを植えさせていただくことになりました。
命の糧を生み出す農の世界から遠くはなれてしまった私たちの「生物としてのリハビリ」を兼ねて、南山食農倶楽部の活動も大切にしていきたいと思っています。